「考える人」と「地獄の門」

ケータイカメラなので画像が粗いです

 久方ぶりに上野の国立西洋美術館へ。
 しかし夕方のくろべー散歩を終えてからいったので、僕が着いた4時半すぎには既に閉門というか、入場終了となっていた。冬季は5時閉館の上、閉館時間の30分前から入場できなくなるのだ。
 んがしかし、せっかく来たのにすごすご引き下がるわけにはいかない。門のところにいたいかついガードマンのおっちゃんんに声をかけ、「5時まで庭園の彫刻だけでも見せてもらえませんか?」と頼んでみた。厳しい顔で腕時計を見やった守衛さんだったが、口元をにやっとほころばせて頷いてくれた。
 僕の腰のあたりに手を伸ばし、招き入れるような仕草で「庭園だけね」と確認する物腰が、いかにも江戸っ子の人情って感じで嬉しい。「ありがとう!」と閉じかけの門をくぐらせてもらいつつ、こういうちょっとしたやり取りだけで芸術鑑賞がぐっと素晴らしいものになりますなあ。
 まあ門の外からでも見えるけど、ここの野外彫刻はロダン作品を中心に迫力あるものが揃っているので間近で見たいのだ。──かつての僕は彫刻ってあんまり興味なくて、何が彫ってあるかってことくらいしか気にしなかった。言い換えれば、いかにモチーフを再現しているかって観点から何を表現してるのかってのを見てたわけだけど、自分でいろいろ彫るようになったら逆の見方をするようになった。
 いかにデフォルメしてあるか、いかに対象の本来の形から外れてるかってことが気になるようになったのだ。たとえば「考える人」なんかは実際の人間のバランスから考えると、ずいぶんと手足が大きかったり太かったりする。実際に同じポーズをとった人を3次元的に拡大コピーや縮小コピーしたってこうはならないわけだが、そのことによって醸し出される迫力ってのも明らかにあるわけで、むしろその表現のためにデフォルメという手段が選択されてるわけである。実物を間近で見ることで、その選択の醍醐味が垣間見える気がするんだよね。
 つうわけで、滑り込みで見せてもらえて嬉しかったし、ちょうど僕が「地獄の門」を見ている時に庭園の照明がともされた。作品は下からライトアップされる形でぐぐっと迫力を増し、門が開こうとしてるみたいな感覚も味わえた。別に点灯の瞬間の表現効果を意図したわけでもあるまいが、こういうタイミングに居合わせてラッキーだったなあ。


 夜は飲み会。美術館がらみの集まりだったので絵の話をいろいろできたのは楽しかったし、同年代の女性陣によるお見合いやら不倫やらの話はいろいろ興味深かった。ロダン作品の「考える人」とか「地獄の門」とかいうタイトルも、こういう話と合わせて思い出すとちょっと象徴的だよね。