アイスバーン大回転とカレーライフ再結集

コートのポケットに残ってた紙片

 朗読『カレーライフ』観劇のため、朝から上京……のつもりが、その前に恐怖体験が待っていた。
 今住んでるコテージ周辺はこないだ降った雪が解けかけては固まってすっかりアイスバーン状態になっている。東京に向かう高速バスの乗り場は車で10分ほど走ったとこにあるので、今朝もおっかなびっくり自分の車で出発したのだが。
 走り出した当初、4WDの切り替えスイッチを入れても操作パネルの表示が変わらなかった。ほんとはそこで止まるべきだったのかもしれないが、寒いせいかなーなどと適当な素人考えで走り続けたのがいけなかった。小川と畑に挟まれた、ゆるやかなカーブの続く道にさしかかったところで、後輪がずるっと滑ったのだ。
 咄嗟にハンドルを動かしてカウンターを当てた覚えはあるのだが、その時にはもう車体がスピンしていた。ぐるぐるっと景色が回る中、頭の中には「うわーこりゃどっかぶち当たるな」とか「人も車も近くにいなくてよかったー」とか「やべえ事故ったらバスもマチネも間に合わねえじゃん」とか「氷上でブレーキは禁物らしいけどここは踏むしかねえよな」とか、いくつもの考えが頭をよぎっていた。
 どーにか車体が止まった時には、僕も車もさっきとは全く違う方を向いていた。12時の方向に走っていてゆるく左にハンドル切ってたとしたら、今は何故か8時の方向を向いている。スリップして120度向きを変えただけならあんなぐるぐる感はなかっただろうから、カウンター当てた勢いで時計回りに240度回ったか、あるいは反時計回りに1回転以上して480度スピンだったのか。どっち向きの回転だったかも覚えてないってのは、そんだけ気が動転してたんだろうなあ。
 にしても、車がすれ違う時にはどっちかが路肩に止まるほど細い道でガードレールもないってのに、スピンしたあげく周りの木にも衝突せず、小川にも畑にも落っこちなかったのは奇跡だった。Y字路ともいえないような形で農工車が通るような細〜い側道があるんだけど、ちょうどその二股になってる部分に僕の車がすぽっとハマる格好になってたのだ。多少バックして切り返してそろそろと走り出したら無事に本来のコースに戻ることができて、なんだか信じられないような気持ちになった。
 ここまで派手なスピンは生まれて初めてである。運よく何事もなくてほっとしたけど、いろんな可能性を考えるとあらためてぞっとした。もちろんアイスバーンを走ってる時点で周りには注意してたわけだけど、仮に道端に人がいたら大変なことになってただろうし、田舎にしては車通りもそこそこある道だ。対向車がプロパンガスや灯油を積んだトラックだったりしたら大惨事になってたかもしれない。凍ってる上に轍ができてる路面では、スタッドレスだろうが徐行運転だろうが関係ないんだってことが感覚としてよく分かったし、今後はアイスバーンの時は極力運転なんかしないで暮らしていこうと思う。


 氷上スピンから生還、高速バスにも間にあって、東京に着いたのはお昼過ぎ。サンシャイン劇場までの道もなんとなく覚えてるもんで、マチネの開演にも間にあった。遅刻したらどっか舞台裏で見させてもらおうと思ってたんだけど、ちゃんと客席で見させてもらうことになった。
 サンシャイン劇場の客席に座るのは、多分10年以上前の『リレイヤーIII』以来である。第三舞台キャラメルボックスを見てた劇場で僕の書いた物語を上演してもらえるってだけでも感慨深いのだが、他にも感慨深いことに溢れた観劇経験だった気がする。そもそも脚本作りに関わらせてもらった身としては、朗読劇として成立させるのは無理がある本だろうと思ってたのだ。たとえば落語で「首提灯」ってネタをラジオで放送したいって人はいないと思うんだけど、音声だけで伝わるものとある種の視覚情報が不可欠なものってあるわけで。
 だけど事前にプロデューサーから連絡を受け、脚本はほとんど変えないと言われた時にも、反対はせずに原作者の全ての協力を惜しまないと伝えた。まあ実際には何もやることなかったんだけど、脚本会議でやりあったことから本公演の涙の大楽までを振り返ったら自然とそういう言葉が出たのである。そもそも舞台化だって無理があるだろうと思ってたものが多くの人に受け入れられてる現実があるわけだし。
 それに、「朗読劇に向かない」と否定するのは簡単でも、その脚本でどうにかして成立させちまえるなら見てみたいって思いもあった。後から知ったことだけど、演出の深作さんも最初は朗読劇は無理だと反対してたらしい。それでも結局はやることにして、売れっ子役者たちのスケジュール確保も難しい中で朗読劇用の演出をつけてくれたわけで、それを客席から眺めるのはなかなかスリリングな観劇体験であった。
 僕が脚本を読み返して思った朗読用演出案は、「各場の冒頭で登場人物の一人にセリフを書き足し、場面・状況説明とその人物の抱えてる心情を語る」ってもんだったのだが、実際の演出は「各場の冒頭で登場人物の一人がト書きを読む」ってものだった。これって僕にとってはコロンブスの卵で、そうかそんな手があったかーと目から鱗。ト書きってのは読まないもんで、役者の声にするならセリフ化しなきゃならないって思いこみがあったんだけど、ト書きを役者が読んじまうことで異化効果が生まれるというか、観客にある種の客観性を投げかけることができるんだね。
 落語でいったら物語世界に入ってた噺家さんがふっと本人の語りに戻って説明することによって、必要な情報が伝わったり笑いが生まれたりすることがあるけど、あの感覚に近いかな。役者さんたちもセリフを言う時とト書きを読む時で声から表情から姿勢まで変えてたし、脚本にあるト書きを全部読むわけじゃなく、必要最低限の箇所にして情報もしぼってあるあたりが納得の演出だった。よく、観客や読者の想像力にゆだねるっていう言い回しがあるけれど、それに頼りきっちゃうんじゃなくて、想像力を導くために何をするかってのが勝負どころだよなー。
 それから、場面ごとに役者の出ハケがあったり座る椅子を変えたりってのも、目にしてみるとなるほどねーと思える。朗読劇への先入観として、「最初から板付きで出ハケなし」ってのを勝手に想定してたんだけど、出ハケや立ち位置の変更がドラマ展開を象徴してもいて、そういう視覚情報を見るのも楽しいものだった。
 動きの芝居ってのも全くなかったわけじゃなく、役者それぞれの表情や視線の動きを見るのも面白いもんだったし、ケンスケとシミズの2人芝居のとこでは視線のすれ違いや交差が場面ごとの表現になってたし、これがケンザブロウとシミズになると二人一緒に上を見上げるという動きになってる様がお見事。ヒカリは立ち芝居の時よりにこやかなキャラクターが前に出てた気がするし、リンダはヒカリへの優しい眼差しが際立ってたし、女優二人の存在が朗読劇になって静かな華やかさに変化したって感じだった。
 一番印象違うなーと思ったのはコジロウの場面で、立ち芝居の時は他のいとこたちに比べて一人芝居ばっかで申し訳ないなーと思ってたんだけど、朗読劇になるとストーリーの裏糸をきっちり通してる存在感がまっすぐ伝わってくる気がした。あと崎本さんの歩き方ってなんか一番カッコよく見えたのは何故だろう。体幹がしっかりしてるといったら井上さんだろうし日頃の立ち居振る舞いのカッコ良さでいったら是近さんも結構なものなのだが、出ハケの時の歩き方が妙に決まって見えたなあ。
 一番どうなるだろうと思ってたのは一人4役とか5役とかをやる大口長谷部コンビだったのだが、衣装やメイク替えなしでもちゃんと演じ分けられてる上、ごく普通に受け入れられている感じにびっくり。この二人の演じ分け能力を活かして落語やったら面白いだろうなあ。――『粗忽拳銃』の天馬フューチャリング大口兼悟なんて見てみたい気がするぜい。
 一番客席がわいてた場面はインド編の終盤、ワタルに対してケンスケとサトルのWツッコミが入るとこだったが、ここでは椅子から立ち上がっての芝居が前提になっていた。その場面の脚本とそこに至る流れは僕が書いたもんなので、朗読劇でも活かしてもらって多くの人に喜んでもらえて嬉しいかぎり。もちろんコミカルな場面っていうのもあるけど、3人の役者の呼吸の取り方が見ていてとても楽しかった。ワタルとサトルの掛け合いは本公演でも評判よかったけど、朗読劇ではさらに際立ったようだ。井上さんは誰よりも生き生きと視線や表情を動かしてるし、植原さんは誰よりも間の取り方やリアクションの取り方がうまいので、主役のケンスケと3人組になるとばしっと決まるんだよね。

 
 ソワレの幕が下りた後、全キャストによるお見送りってイベントがあって、役者たちは数百人のお客全員と握手したり言葉を交わしたり。きついスケジュールの中で2ステこなすだけでも大変だろうに、それだけの大人数と会うってもしんどかろうなーと思うけど、その甲斐あってお客さんたちがみんな輝きまくった表情になってるのが印象的だった。自分の番が終わった後も名残惜しげに出入り口付近にたまってる様は結構な迫力だったし、「台湾」って書いた団扇だかプラカードだかを持ってた人たちはわざわざ台湾から観劇来日したのだろーか。
 そういえば西洋人風の外観のお客さんもいたし、製作スタッフルームでアンケートを読ませてもらってたら日本語ネイティブじゃない上に朗読劇は初めてって人が楽しんでくれた様子が記されてて嬉しかった。その人の日本語リスニング能力が高いから伝わるんだろうけど、日本独自の文化としてのカレーライスをテーマにした物語が外国の人にも伝わるってのは嬉しいかぎり。『カレーライフ』の後のワタルが主役の一人として出てくる『図書館の水脈』の韓国版がそろそろ刊行される(もう出てんのか?)ってこともあるし、映画版『カレーライフ』の海外ロケなんて実現したら嬉しいんだけどなー。
 もちろん全ての反応が高評価ってわけじゃなく、アンケートには厳しいことも書かれてて、そういうのを読むのも興味深い。朗読劇に向かねえかもと思ってた身としてはそういうネガティブ意見に納得することもあるわけで、またいろいろと考えさせられる。映画化やDVD化を望む声も多くて、僕も一緒に実現を祈るばかり。
 そんな感じでアンケートを読んでるうちに演出家や日テレの偉い人たちと雑談になり、『カレーライフ』を書いたきっかけについて尋ねられた。それで以前どっかのエッセイで書いたエピソードをお答えしたのだが、喋りながら不思議と自分で腑に落ちる感覚があった。――カレーって料理には、いい加減に作ってもこだわって作っても成立する二面性とか包容力があって、それが発想の核になってワタルとサトルの兄弟に反映されたんだけど、だから僕は脚本におけるワタルとサトルの在り方にこだわってたんだなあ。
 んなこと思ってるうちに打ち上げの時間がきて、某飲み屋さんに移動して飲みまくる。最初のうちは役者テーブルスタッフテーブルと分かれてる感じだったけど、飲むにつればらけて入り混じってく感じが気持ちよかった。個人的には是近さんや中村さんや植原さんとシチュエーションパズルで遊べたのが楽しかったなあ。
 その店には「黒龍」って日本酒が置いてあったんだけど、これはちょうど飲みたかった銘柄だった。なにしろ黒犬くろべーと暮らしながら辰年を迎えようとしてるわけだし、趣味の木彫りでは龍とくろべーを彫ってるとこなのだ。冷やで飲んでる演出家を見てるうちに羨ましくなって、どーせなら一升瓶で飲んじまえーと注文してしまった。
 しかし予算枠に抵触しちまったのか何なのか、プロデューサーから一升瓶独占禁止のお達しが。そんならとコジロウ&ワタルの因縁コンビにお酌しにいったんだけど、その時点ですでに結構酔ってたもんで、こぼすやら二人の勝負に持ってけずにかわされちまうやら。皆さんどーもすいません。
 飲み会の締めくくりにキャスト・スタッフ一人一人がみんなに挨拶するコーナーがあったんだけど、そこで「またこの座組みで集まれて嬉しい」みたいな発言をする人がすごく多かったのも感慨深かった。――小説『カレーライフ』の読者で本公演を見てくれた人の中には、「原作の、ケンスケのカレー屋がみんなのベースキャンプになるっていう要素がなくなってたのが残念」って人が複数いたんだけど、その問題にふっと救済がもたらされた気がしたんだよね。
 舞台化にあたって原作の全ての要素を組み込むのは不可能ってもんだし、脚本化の時点でベースキャンプや航空母艦のイメージを前に出すことは諦めた。それよりアメリカインド沖縄と回るってのを活かしたいってのが演出家の意向だったし、僕は原作者としてのこだわりを語るより脚本監修として職人仕事をしたいと思ってたのだ。もちろんベースキャンプへのこだわりはあったけど、それをストーリーやセリフにする代わりに脚本構造の中に組み込むって道を選んだのだ。
 だけどふと気づいてみれば、原作にあった「それぞれの道を進むいとこたちが折りに触れてケンスケの店に集まる」っていうベースキャンプのイメージはそのまま、「千秋楽の後でそれぞれの仕事をしてたキャスト・スタッフが朗読劇のために再結集する」ってことと重なる。迂闊なおいらは打ち上げのラストでそのことに気づき、ああこうして繋がるんだなあという感慨を抱いたのだった。


 つうわけで、その後の話なんかも書こうかと思ってたけど、ここまででも随分と長くなっちゃったので、ひとまずこのへんでおしまいにしようと思います。――一言にまとめるとしたら、2ステージこなして数百人と笑顔で接した後にさらに大酒飲みまくったってのに疲れた顔ひとつ見せずにはしゃぎまくり・踊りまくり・周囲に気を配りまくりの崎本コジロウ氏は本当にすごい人だなーと思いました。真横で聞かせてもらった『夜明けのバラッド』はなんだかすっかり頭に焼きついてる感じで折りに触れてリフレインしてるよ……