モミジイチゴとツキノワグマ

この画像を撮った直後に熊と遭遇

 森の中、クマさんに出会っちまった。
 花だって咲いてる森の道で、クマさんに出会っちまったのだ。
 相手はツキノワグマ。僕とクマとの距離は、ほんの20〜30メートルほど。一瞬だったがはっきりと、互いの存在を認識してしっかりと見つめ合った。
 童謡の中では出会った後、極めて能天気に明るくララランララーラーララーラ〜♪と歌う展開になるわけだが、実際に会うとそんなのんきなこたぁ言ってられない。後からじわじわと怖かったし、その圧倒的な存在感は感動的でさえあった。
 朝の散歩の最中のことである。そろそろ収穫期に入ったモミジイチゴ(今年はちょっと早いようだ)の群生地にいって、そこそこ摘んでの帰り道。くろべーが足腰衰えてきたわ道草が好きだわで遅れがちになるので、僕ものんびり歩いていた。そしてふと、右側の小道に目をやったのだ。
 最初に黒い影が目に入った瞬間は、「あれ、なんか黒いのがいるな。くろべーより大きいな」ってくらいの感覚だった。そしたら相手も顔を上げて、ばっちり目が合った。
 その距離、約30メートル。アホなおいらは、クマだと認識するより先に「あ、立ち耳だ」と、まだ犬を見つけたような感覚でいた。黒くて立ち耳で頭が大きくて、スキッパーキっていう種類の黒犬を大きくしたような感じに見えたのだ。目が合ったのは確かだったけど、特にやばい気もしなかった。
 だけど見つめ合った一瞬の後、相手の体にぴぴっと緊張が走った。それから弾かれたようにぱっと動いて笹藪に飛び込み、だだだっと走り去っていった。――相手が若いツキノワグマだとはっきり認識できたのは、そうやって向こうが逃げてる最中のことだった。
 クマと出会ったら、決して目を離しちゃいけないと聞いたことがある。背中を向けたりしたら、本能的に追いかけて襲う習性があるというし、死んだふりなどしようもんなら料理の皿が出されたみたいに一発でやられるっていうのだ。
 だから、じっと相手を見てた僕の行動は、結果的には正しかったことになる。だけどその時は、正しい危険対処なんてことを考えてたわけじゃない。ただ目の前の野生の獣に見とれて、ぽかんと立ち尽くしていたのだ。
 その動きの敏捷なこと、沢の方向に走り去る速度の速いことといったら、犬の比じゃなかった。犬だって相当すばしっこいけど、体の大きさと瞬発力がまるで別次元だったと思う。相手の方から逃げてくれてよかったけど、こっちを襲う気になってたら絶対に逃げられなかった。
 だけど不思議と怖いとは感じなかった。クマが去ってからしばらくの間も、しばらく感動を覚えてたほどだ。「鳥肌が立つ」って言い回しは、恐怖と感動の両方に使われたりするけれど、僕の場合はまず感動を覚えて、それが鳥肌になって現れ、それからようやく、ああ危ない状況だったんだなーとぞっとしたほどだ。まあ緊張感がないって言っちまえばそれまでなんだけど。


 そういえば以前、山道を歩く時、くろべーを連れてれば大丈夫だよって言われたことがある。犬は嗅覚が鋭いのでクマの接近に気付くし、クマは聴覚が鋭いので犬の存在に気付いて接触を避けるというのだ。何かあったら吠えて威嚇になるというし。
 だがしかし、そんなこたぁ嘘である。くろべーは最後までクマがいたことに気付かなかったし、クマの方だって僕らが30メートルほどの位置に現れるまで気付いてなかったのだ。特に音を立ててたわけじゃないけど、僕とくろべーの足音や呼吸音くらいはしてたはずだから、クマの方もぼけっとしてたのかもね。
 クマの去った後、後ろを振り返ると、くろべーはな〜んも気付かずのんきに道端の草むらのにおいを嗅いでいた。いや下手に吠えかかってクマを刺激するよりは、それでよかったのかもしれないけれど。
 ちなみに、クマがいた場所はこの別荘地の幹線道路から30メートルほど。もっとも近い別荘からはほんの50メートルだし、僕んちからも数百メートル。もっと近いところに常住してるご夫婦もいる。他の人が事故にあっちゃまずので、帰宅してから管理事務所に通報した。最初は「たしかにクマでしたか?」なんて疑われちゃったけど、くろべーよりでかくて立ち耳で、しっかり目が合ったと伝えておく。それがクマじゃないなら巨大オオカミか何かだし、そっちの方が大変だよな。
 その後どうなったかはよく知らない。クマは沢伝いに本来の生息地に逃げたんだろうし、管理事務所もそれなりに警戒や警告に乗り出したんだと思っておきたいとこである。――例年この時期には、友人知己にモミジイチゴ狩りにおいでよーなんて誘うんだけど、今年は命がけの人にしかおすすめできないようです。
 とはいえ、僕にとっては近所の道であり、日常の生活の場である。夕方の散歩の時間になって、少し迷ったが目撃地点まで行ってみることにした。クマは夜行性だっていうからもう大丈夫だろうと思ったし、家にあった鈴も身につけて歩くたびに音が鳴るようにしたし。
 て、同じルートを辿って遭遇地点へ。僕の立ってた場所からクマのいた場所まで、歩数を測ってみたら、ほんの32歩だった。んなもん、あれだけの身体能力を持つクマがその気になって突っ込んできたら、身構える暇もなかったんじゃねえかなー?
 何はともあれ、命拾いしたと思って、これからは悔いのない人生を送れるように心がけようと思います。そして、明日からも鈴を身につけて散歩しとかんとね。