スタインベックとフィッツジェラルド

いえ竹村じゃないんですが

 のんびり起きて昼前に食料の買い出しに出かけ、午後は講演の草稿書き。まあ草稿つってもメモ程度のもんだけど。
 その最中に宅配便で『チャーリーとの旅』のゲラが到着。先日渡した第一稿に編集者チェックが入って戻ってきたので、明日からそれをふまえた推敲作業に入るのだ。
 ゲラと一緒に細々書き込んだことを恐縮する手紙が添えられていたが、何の何の。テクニカルなレベルで話ができるのは楽しいし、ほどよく知的な刺激を受ける感じである。これが自作小説となるとどうしても“外野の思いつきを押し付けられてる”っていう悪印象を抱いてしまう(実際そういうケースも多いし)のだが、どこか感情作業である創作と比べると翻訳作業は言葉選びの知的作業って要素が強い。相手に度量と熱意があれば同じ土俵で戦う楽しみってのがあるのだな。


 なんてなことを思いつつ、ゲラと原文コピー電子辞書と赤ペン青ペン蛍光ペンを駆使して作業。午後は日当たりのいい仕事部屋がすぐにとっちらかる。
 やがてくろべーに散歩をせかされて階下へ。ハーネスつけてリード繋いでいざ出発……と思ったら、ポストには冊子小包で『グレート・ギャツビー』が届いていた。前にネットで注文しといたのだが、同じ日に届くってのも妙な縁だなあ。愛蔵版 グレート・ギャツビー
 そもそも僕が翻訳に興味を持ったのって村上春樹さんの影響だし、実際に翻訳をする際の指針は『翻訳夜話』だった。野崎訳の『ギャッツビー』は訳文に拒否反応を感じちゃう僕だけど、理想は柴田元幸さんの訳文なのだ。翻訳夜話 (文春新書)
 いやそもそも、スタインベックフィッツジェラルドってほぼ同時代のアメリカ作家じゃなかったけと思うと、その2作品が同じ日に我が家にやってきたというのも光栄な話だよなあ。