鰻御膳と贋作師

今は車のキーホルダーで活躍中

 くろべーのドッグフードが残り少なくなってきたので、午前中から獣医さんのところへ買いに行く。特別療法食とやらなので、獣医師の処方が必要なのか、動物病院じゃないと買えないのである。
 そこはとても良心的な病院なんだけど、さすがに特別療法食のまとめ買いとなると結構な値段になる。ふっと、俺の食材にこんな金出すことなんてないよなーと考え、なんだか悔しくなったので、僕の昼飯もたまには張り込むことにした。
 で、駅前のおいしい和食屋に入り、国産鰻御膳肝吸付ってやつを注文。しっかり作る店なので注文から最低三十分はかかるってことなんで、こちらも腰を据えて短編小説を読むことに。


 こないだのブログで根付について教えてほしいと書いたら親切な読者の方が北森鴻さんの短編に根付を扱った作品があると知らせてくれた。ほほうと思ってネット検索かけたら「根付け供養」って作品のことだと判明、しかもよく見りゃ2001年に小説すばるに発表された作品ではないか。2001年だったらまだ僕も同誌と付き合いあって毎号発売前に届いてた頃である。2009年に人に指摘してもらうまでその作品の存在にすら気づいてなかったってのは我ながら不勉強だよなあ。
 で、鰻の前にその短編を読んだわけですが。
 一読してとても面白く、プロの仕事できっちり書かれた短編だなーと思ったんだけど、ちょうど主人公の骨董屋さんのように「小さな小さな痼りのようなもの」が残った。おいしい鰻を食べつつ、それは何だろなーと考えてみた。
 ……つうわけで、こっから先については「自分の知らない作品内容が書かれているとネタバレだと怒る人」とか「自分の好きな作品に対して批評されると自分を悪く言われたように怒る人」とかは読まないでね。別に「根付け供養」って作品を悪く言いたいわけじゃなく、ちょうど僕の体験した感覚と繋がったので余計に面白かったって話なのです。


 「根付け供養」を乱暴に要約すると、“現代の贋作師が江戸時代の根付と称して高値で売った象牙彫の弁財天を、主人公が偽物と見破る”ってのが大筋である。どうして見破ったかというと、和装の際に帯から提げ物を垂らす際の滑り止めである以上、「根付の突起は、なるべく少なく作らねばならない」のに、“琵琶の上部構造の立体造形となっている”からってのがその理由。小さな小さな立体彫刻でありながら、弁財天の持った琵琶では直角に曲がったパーツなどが緻密に再現されていたのである。
 「つまり、これは日頃着物を着ることのない人間が、拵えた物」ってことで、現代人が作ったという論理的決着にいたる。読んでいてすんなり理解できる推理だし、贋作師自身もそれを聞いて納得することから粋なラストに繋がっておって読後感もいい。伏線とか展開とか心情描写とか、小説としての技巧が見事にこらされた短編で、ネット上で多くの読者がこの短編を好きだと書いていたのも頷ける。
 だがしかし。木彫りが趣味のひねくれ者であるおいらは、そこでこう思うのだ。──見事な技巧で書かれたこの短編自体、作中の見事な贋作根付と同じ違和感を内包してはいないだろうか?
 “実用品である根付は僅かな衝撃で折れるような突起を設けてはならないのだが、贋作師は日頃着物を着ないし我流で技術を習得したのでその条件を見落としていて、結果として江戸時代の作品ではないと見破られた”っていう流れは、一見きちんと理屈が通っているように思える。江戸時代の根付に見せかけるための「古色をつける」っていう技法が具体的には書かれてなかったり、問題の贋作根付は市場には出回らずに好事家に買われたって設定のおかげ世の目利きに見破られるってことも避けてあったり、いろんなことが無理なくつながるように書かれているのだ。──だけど、贋作を作ってる際の感覚ってことを考えると、少なくとも僕の中では違和感がぐわっと首をもたげる。
 贋作師は江戸時代の根付に見せようとして小さな弁財天を彫ったのである。そして自らの手で彫った以上、いくら我流であっても、「僅かな衝撃で折れるような突起」を作ってることを自覚しないはずはないのだ。製作段階では刃物を使って強い力を加えてるんだから、素材が折れちゃうほどの力が加わる機会は使用者よりも前に製作者に訪れていて、それは必ず指先から伝わってくるはずなのである。
 僕の実体験で言わせてもらうと、今日の画像のくろべー根付を彫りながら、「いくら椿材が堅いっていってもこの尻尾部分は下手すっと折れるよなー」とずっと思っていた。だから慎重に彫ったわけだけど、その時点で「こんなものは根付じゃないよ君ぃ」と言われるかもなってことは覚悟した。それでもこの形に仕上げたのは、僕にとっては根付の定義に従うより実際のくろべーの姿に近づける方が大事だったからだし、人様に渡す予定も和装で使う予定もないので折れやすいデザインでも構うもんかって思ったからである。
 「根付け供養」という作品に戻ると……見ただけで「僅かな衝撃で折れる」と思えるような突起であれば、当然作り手は気づく。我流であっても、和装感覚がなくても、細工に凝るあまり江戸の根付けに似せることから逸脱しても、彫ってる最中に彫ってる材料に加わってる力を意識しないなんてことはありえないのだ。そして、それに気づいていながら「ふふふ、これは誰が見たって江戸時代の古根付だよーん」なんて考えることはないんじゃないかってのが、僕が一読して抱いた違和感なのである。
 んがしかし。こうやって違和感を文章化したことで探偵気取りになって、「つまり、この小説は日頃根付けを作ることのない人物が、書いた作品であるということです」なーんて言っちまったたら大間違いって気もする。前段落の文章をちょいといじるとこんな理屈だってすぐに出てくるのだ。──「一読しただけで気づくような違和感であれば、当然書き手は承知している」
 作中には、「この作家には、初めて見た瞬間から二面性を感じていたよ」という台詞が出てくる。この台詞を「根付け供養」って作品と作者にあてはめることで見えてくる二面性、っつうか二重性がまた、なんとも面白いもんんだなーと思えてならないのは僕だけだろうか?


 てな感じで、我流の素人芸で根付けの定義からはみ出るような作品を彫ったおかげで、随分と楽しい読書になっていろいろ勉強になりました。皆様に感謝申し上げつつ、そうなると次は、こういう感覚をどう自分の創作につなげるかってのが問題になってくるんだよなあ。
 しばらくあれこれ考えてみよーと思います。はい。