入れ替え忍者と立ち聞き原作者

どこか駄菓子屋さんっぽくて楽しい

 原作&脚本監修の役得で、舞台『カレーライフ』の稽古場を見学させてもらってる。
 『カレーライフ』についてはかつてラジオドラマになった際にも現場に入れてもらったし、もちろん自分で書くための現場ってのも体験してるわけで、三者三様にまるで違うことが面白い。僕はもともと『ラヂオの時間』とか『リレイヤー』みたいなバックステージものの映画や芝居が好きだし、自分でもメタフィクションがかったものを結構書くので(『3年5組・ザ・ムービー』とか『粗忽拳銃』とか『真夏の島の夢』とか……)、『カレーライフ』にまつわるあれこれが核になって何か一本書けるなって手ごたえがあるんだよね。
 ブログであれこれ書くと思いもしない方面に迷惑かかりかねないってことで、こないだのやつも多少たしなめられちゃったんですが……今回は僕の創作活動に繋げる取材メモって視点から、固有名詞をなるべく排除しつつ書きとめてみます。


・最初に稽古場に入った瞬間、顔寄せとでまるで雰囲気ちがうことに驚いた。
 こなだいはプロの役者さんってのは読合せ前にこんな張りつめた顔してんのかーと思ったもんだが、休憩中にお邪魔したせいか、稽古場には適度にリラックスした空気が漂っている。現場にお邪魔する身としては迷惑じゃないかなーって気後れも常にあるので、和やかな空間でほっとした。
 でも考えてみりゃ、そういう空気ってたまたま自然とそうなったってわけではなくて、スタッフやキャストが意識して作ってるものなんだよね。演出の、「役者が自分から少しでも早く来たくなるような現場を作りたい」って言葉が印象的だった。


・稽古が始まると、やっぱり役者の表現力ってすげえなあと思う。ぽんと一言口にした際の支配力というか、有無を言わせぬ説得力ってあるんだね。これなら脚本が多少強引でも多少辻褄が合ってなくても何とかなるって気がしないでもない。いや最初からそれに頼っちゃいかんのだろうけども。
 僕はこれまで、芝居の稽古というと学生演劇とか地域コミュニティーのワークショップとかで垣間見た程度である。だからプロの現場を見るってのは、少年野球や草野球で楽しんでたアマチュアプロ野球の練習場を見てる感覚に近いのかなと思う。スピードガンの前で全力投球しても110キロしか出せなかったピッチャーが、軽い投げ込みで130キロ出してるプロ投手を見たらこんな感動ってあるのかな。
 子供の頃、後楽園球場(ドームじゃねえぞ)で江川の登板を見て、速いとか速くないとかいうのを超越した別物なんだって思った覚えがあるだけど、舞台本番見たらそういう感覚が味わえるのだろうか。


・表現力とはまた違う意味で感心したのは即応力や感応力。同じところを何度も何度も繰り返すんだけど、演出に応じて芝居を微調整していく様は見事なもんだし、相手役に応じて芝居が変わっていくってのもあるようだ。素人感覚からすると台詞をすべて頭に入れてるだけでも大したもんだと思うのに、表情から仕草から立ち位置まで把握した上で互いに感情をやりとりしてるわけで、並大抵のこっちゃないよなあ。
 たまに役者のインタビューなんかで、「大物役者と共演するのが本当に嬉しい」みたいなコメントを見かけるけど、あれって社交辞令とかリスペクト感覚だけじゃないのかもしれないなと思った。すげー役者と共演することで自らの表現領域が拡大してく感覚ってあるんだろうし、それを味わえるんだったらそりゃあ嬉しいに決まってるよなあ。


・そういう様々な情報を統括してるのが演出部。演出はすべてにわたって把握した上で芝居をつけてるわけだし、演出助手は内容面だけじゃなくて周りの実務レベルにも一通り気を配ってて、本当に大変そうなお仕事である。横から見てて、とても俺にゃあできねえなーとつくづく思う。
 で、稽古が一段落した際に、「手がける情報の多さがプレッシャーになったりしませんか?」と尋ねてみた。僕自身が自主映画を撮る時にそう思うことが多々あったからなんだけど、演出さんにはきょとんとした顔をされてしまった。どーやらそんな質問自体が意外だったらしい。大変さなんて考えもしない、というか、素人目には大変だとしか思えないことを楽しみとしてやれるってのが本職ってもんなんだろうね。


・何が嬉しいって、脚本に潜在してる笑いの要素をきっちりと踏まえる演技指導がなされてるのが嬉しい。字面だけではすーっと流れちゃいかねないし、役者さんが真面目に感情こめて読んでた本読みでも笑いには繋がってなかったのが、稽古場では我慢できずに笑い声が上がってたりもする。そういう笑いが観客をほぐしてくれるだろうなって予感も漂ってて、いろんな意味でほっとする。


・稽古場ではある程度の舞台装置も使っていて、場面転換の際には舞台監督さんや美術さんがテーブルや椅子を運んだりもしている。演技してる役者さんと一緒に裏方さんも板に上がってるわけだ。
 芝居の最中に脇に控えてる姿を見て、ああ場面転換に備えてるのねってのは分かる。だけど不思議なことに、芝居がすすんでいざ次の場面になってみると、いつの間にか舞台装置が入れ替わってる感覚だった。目の前で入れ替えてるはずなのに、事前にそれを分かってるはずなのに、それをまるで意識しないってのが手品みたいである。芝居に気をとられてるからってのもあるけれど、それだけ見事に気配を消してるってことだろう。
 忍者みたいですねーと言ってみたら穏やかに笑っておられたが、聞けばそういう職能を持ってないって人も結構いるらしい。気配消してるつもりでも何か抜けててぽかっとミスしちゃうんだそうで、忍者ならその瞬間に槍で突き殺されちゃうんだろうなあ。僕自身もそういうタイプなんだけど。


・稽古中、地震が起きて稽古場も軽く揺れた。僕は揺れてるなーと思いつつも黙ってたが、演出はすかさず芝居を止めて注意喚起、そして役者たちは揺れてることに全く気付いてなかった。
 芝居内容だけじゃなくて現場の安全面にも気を配るってのも、そして地震なんぞに気付かないほど芝居に集中してるってのも、どっちもプロの仕事だよね。おいらはそれを横から見てるだけだけど、カッコいいなーとしみじみ思う。


・役者さんの一人が演出に、「このセリフ、切っていいですか?」と尋ねていた。役の感情と矛盾する台詞だから、言わない形でやってみたいっていう提案&確認である。
 演出はOKしそうだったんだけど、横で聞いてたおいらは、悪いかなーと思いつつも我慢できずに出しゃばってしまった。そこの矛盾は意図的なもんであり、気持ちと反対のことを口にするってことによって表現できる振れ幅こそが狙いってことを伝えたかったのだ。
 でもすぐに後悔。ここで僕が口出しするのは間違いで、台詞の意図なんぞ説明するより役者自身が掘り下げるっていうアプローチが大事だったんだなーと思う。小説読んでる人の横で「そこの意味はねー」なんて口出しする作者は引っこんでろってのと同じことで、恥ずかしい&申し訳ないことをしてしまった。
 救いだったのは、いざその場面の稽古となったら、役者さんはその台詞を残した上で矛盾の振れ幅を見事に表現してくれてたってこと。その即応力と表現力はやっぱり感動的だった。


・別室のロッカーに放り込んどいた荷物をとりに行こうとして、ふと気付いた。――扉の向こうから台詞が聞こえてくる。
 稽古場では出番のない役者さんたちが自主稽古に励んでいるのである。どうやら一人は自分の役だけど、もう一人は自分以外の役柄を演じているようだ。扉を開く手を止めて、しばらくその声に耳を傾けた。
 制作スタッフの方は僕に気をつかってくれて、気にせず開けちゃっていいですよと言ってくれたのだが、ここは中断したくなかった。僕の方がお邪魔してるんだからって意識もあったし、単純に役者たちの台詞廻しが心地よかったし。
 一人の稽古にもう一人が付き合っているのかもしれないし、あるいは自分以外の役柄を演じることでより深く芝居を掘り下げられるってことかもしれない。興味あったので後でそのことを尋ねてみようとしかけたが、ご本人は照れたように笑っただけで多くを語らなかった。
 他の人たちと喋った際、自主稽古について尋ねてみたんだけど、稽古してる本人たち以外も嬉しそうだったり誇らしそうだったりしている。そういうところから役者とスタッフの同心円が垣間見えるようで、いいもの見せて(聞かせて)もらったなーと思う。