金環の瞳と邯鄲の夢

鼻先にぽちっと見えるのが太陽

 目覚めて寝室の雨戸を開き、おお晴れてるぞーと喜ぶ。今朝は金環日食ってことで、観測用のフィルターがついた科学雑誌の増刊号を買っといたのだ。
 日食のはじまる時間になって、早速そのフィルターで朝陽を眺めてみる。――んがしかし、我が家は森の中にあるせいで、月のせいで欠けてんだか木の陰になってんだか判然としない。やっぱり見やすい場所まで移動じゃーってことで、朝のくろべー散歩を兼ねて出陣。
 今朝の散歩はちょっと大荷物である。いつも散歩の時にはリードだのスコップだのビニール袋だのテニスボールだのが詰まった散歩バックを持参するのだが、今朝はそこに日食用装備が加わる。観測用のA5版下敷き・カメラ替わりのケータイ・同じく3DS・ラジオで日食報道を確認するためのウォークマン・観測中にくろべーを遊ばせておくサッカーボール。ついでにいつもはしない腕時計まで身に着け、準備万端って気分で森の中を進む。基本的に人けのない場所なのでいいけれど、傍から見たらバカみたいかもなーとふと思う。


 目的地は見晴らしの開けたリゾートマンションの駐車場。もっとも、朝陽が昇ってるのは開けた方向じゃなくてマンションや山の方向だったが、まずは駐車場でくろべーとボール遊び。奴がサッカーボールをくわえてごろごろと寝転んでるところで、僕もアスファルトに寝そべって空を見上げる。
 じわじわと太陽面を移動する月の影を眺めつつFM放送を聞いてたのだが、日食の報道もラジオ局によってまるで違うようだ。レポーターがやたらと感動的とか神秘的とか強調してもりあがってる局もあれば、直前までスポーツコーナーでサッカーの話ばかりしてる局もある。なんだってこのタイミングでサッカーの話題なんだよと思ったが、僕も日食を見に行くためにサッカーボールを持参してるんだから人のこたあいえないわな。
 ザッピングの後、音楽を流してる局を聞きながら金環の瞬間を迎えたが、その音楽ってのが見事にドリカムの「時間旅行」だった。――1990年に作った歌らしいけど、ずっと第一線でバンド活動を続けながら22年後の日食を迎えるってどんな気持ちなんだろーなあ。
 1990年ってえと、僕は進学校から予備校かに進学した頃だなーとか思うけど、その頃は22年後にこういう場所で大きな黒犬と寝そべりながら金環日食を眺めることになろうとは想像もしなかった。あの頃、僕はダビングしたカセットテープでドリカムを知ったんだけど、そのテープをプレゼントしてくれた女の子はもうこの世にはいない。―― 金環の瞬間の太陽は空に浮かんだ目玉みたいにも見えて、ふっと一つ目の運命神なんてものを連想する。
 天体の運行に比べりゃ人の営みなんて束の間の夢、なーんてのは使い古された言い回しだけど、その短い間におきる展開の醍醐味ってのもあるよなーと思わせてくれる金環日食。邯鄲の枕ならぬアスファルトを枕に、とりとめなくそんなことを考える朝であった。