『文化祭オクロック』文庫版と変則チェストーナメント決勝戦

中央にいるのがくろべー黒ナイト

 新刊告知。創元推理文庫から、『文化祭オクロック』が発売されました。

文化祭オクロック (創元推理文庫)

文化祭オクロック (創元推理文庫)

 単行本になるまでも大変だった作品なので(書くのは楽しかったけどね)、こうして文庫にまでなってくれて嬉しいかぎり。よかったら読んでみてください。文庫版あとがきで、読者からお便りをいただいたDJコーナーなんかもついてます。
 そのあとがきには収録しきれなかったけど、群像劇なので登場人物に対する読者の反応は様々。個人的に、主筋ではない村上くんや藤原くんに着目してくれた人が結構いたのは嬉しかった。小説に対する反応ってともすると情動面や推理面に特化しがちだけど、知的刺激とか表現欲求とかについて評価してくれる読者の存在ってとても心強い。いえまあ、藤原ジントクはちっとも知的じゃないですが……
 多分、いま連載中の『司書室のキリギリス』シリーズでも、そのあたりの系譜は続いてる気がする。話としては特に関係ないんだけど、こうして発行時期と発表時期が重なるのも象徴的というか何というか。


 その『司書室のキリギリス』の最終話、朝の寝床で構想を練って、寝起きにストーブにあたりつつ創作ノートにプロットをまとめる。既に本文も書き始めてはいたのだが、こうして全体像がまとまるとほっとする。先が分かんない状態で書くのも楽しいけど、行程を決めて進んでいくのも独特の喜びがあるんだよね。
 くろべー散歩と朝食の後で執筆の続きにとりかかり、昼過ぎに一段落。明日から雨らしいので、食材の買い出しにいくことに。帰りにカフェに寄ることにして、くろべー同伴で出発。
 すっかり馴染みの店なのでくろべーも歓待してもらえるし、今日は常連の親子連れ客と遭遇。次の予定までこのカフェで時間をつぶさにゃいけないらしく、息子くんが退屈がっていたので、「チェスでもやるかい?」と誘ってみる。
 こんな時のため、自作の木彫チェスセットを車に常備してあるのだ。くろべー型黒ナイトに感動されたりしつつ、駒の動きから教えてあげた。――基礎概念から教え、僕をチェックメイトに追い込むまで持っていったんだけど、これはこれで勝利を目指すのとは別の頭の使い方をする。最後の一手を、少年自身で思いつくようにもっていくのって、詰めチェスともまた違う、小説を書くのにも似た感覚がある気がした。
 少年はもともと風邪気味だったそうだが、試合中に知恵熱も手伝ってか見る見る顔が赤らんでいく。――こうやって子供にチェスを教えたことって何度かあるけど、知的ゲームに敏感に反応していく様が微笑ましいもんだなーと思う。


 反面、ネットのチェスで子供に遭遇すると不快な思いをすることが多い。ネットって自意識が剥き出しになりやすいメディアだし、10代の頃はそれが顕著だから、プライドを守ったり満たしたりするために相手を貶めたり嫌がらせしたりする傾向ってある気がするんだよね。そういう「自意識の腐臭」が他人を不快にするってのは大人でもあることだけど。
 しかし現実世界の対面コミュニケーションだとそういう不快な軋轢ってぐっと軽減される。カフェで対戦したチェス初体験少年もとても気持ちいのいい対戦相手だったわけで、この違いはどこにあるんだろうなあ?
 よく「相手の顔が見えるからいい、コミュニケーション情報の多さの問題だ」みたいな言い方があるけれど、顔の見えない場合でも、英語サイトのチェスサイトでは意外とネットクソガキの出現率は低い。その場合は僕の英語力の低さがコミュニケーション情報の少なさに繋がって功を奏してるようだから、真逆なんだよなあ。
 もちろん英語サイトだって不快な奴はいるけど、日本語サイトのそれとは違って自意識の腐臭を感じることは少ない。もっと単純な「勝つと威張って負けると悔しい」的な感情とか、相手の国籍を見てのレイシズム悪口が多いようだ。こういうのは国民性とか文化性の違いなのか、それともネット社会やサイト構築の成熟度の問題なのか、どうなんだろうなあ。
 そりゃそーと、去年から長々遊んでいるチェス960のトーナメントで、ついに決勝リーグも大詰め。世界各国から99人の参加者が集まっての総当たり戦、予選リーグを3つくぐりぬけての決勝リーグも、どうやら年内にはかたがつきそうだ。その決勝戦で、あと3試合を残して単独2位に立てた。1手3日以内っていうのんびりペースの通信対戦でじっくり遊んでるので、長い努力が結果に繋がってるようで結構嬉しい。
(この後、3日もたたずして単独2位ではなくなっちゃったが、3位以内入賞を目指して奮闘中)