『名古屋式。』と獅篭物語

takeuchimakoto2005-04-10

 久しぶりに上京。ちょいと東京に行く用事があったし、東京の桜は満開で花見は今週がラストチャンスとかいっとるし。
 東京駅&新宿駅周辺で用事を済ませ、ついでに雷門獅篭の『名古屋式。』も購入。著者本人から「口コミ宣伝よろしく」みたいなメールをもらったわりに、うちの近所の本屋じゃ売ってなかったのだ。(つうかたまにゃあ献本してくれよ)名古屋式。
 駅の本屋で買って移動の電車内で早速読んでみた。獅篭の4コマ&1コマ漫画を楽しめるってだけじゃなく、これはいかにもマスコミ業界人が喜びそうな「ネタ元」本である。万博がらみのブームでこれからしばらくテレビや雑誌では名古屋特集がたくさん組まれるだろーけど、その際に使われそうなネタの宝庫なのだ。そういう仕事についてる皆さん、とりあえず資料用に買っといて損はないよ。
 名古屋にまつわるあれこれを、獅篭は笑いって切り口で漫画のネタにしてる。ところが同じネタでも「情報」って切り口で描くとなると、この本を起点に何倍にも膨らませることができるだろう。雑誌や新聞やテレビ番組が使うにはたくさんの余地が残されてるというか、たとえば情報バラエティ番組の撮影クルーが『名古屋式。』を手に大須観音周辺に乗り込めばそれだけで30分番組くらい作れちゃうことだろう。若手タレントのお姉ちゃんを何人かコメ兵に送り込めば、それだけで「王様のブランチ」の1コーナーが成立するんじゃなかろーか。


 そんなことを思いつつ移動した先は中野駅。ここの商店街とブロードウェイをぶらつき、向かった先は高円寺会館。東京に出たついでに、当の雷門獅篭の落語会にやってきたのだ。
 会場に入るなり、受付嬢が離婚したはずのおカミさんでびっくり。聞けば2人して万博見物した後で名古屋からやってきたとかで、相変わらず仲良しらしい。結婚すらしたことない僕には離婚のことなんて分からんが、そういう仲というのもいいもんだなーと素直に思う。
 客の数は30人くらいでちと寂しいが、これでも前回よりはだいぶ増えたんだそうな。荻窪のママ俺時代や風マンバブル時代を見てきた身としては、「シカゴの客席」の変遷だけでも結構興味深い。単に人数だけのことじゃなく、明らかに客層が違うんだよね。
 肝心の獅篭の落語については、喋り始めた瞬間にあれっと思った。──なんだか、やけにゆっくりとしてるように感じたのだ。
 あくまで素人考えなので的外れかもしれんけど、リズムではなくテンポがゆっくりしたって感じだろうか。フレーズとフレーズの間が広い感じなのだ。客の僕があれっと思うほどなのに、演者はその間を平然と乗り越えて噺を進めていっている。
 そこで客に反応の余地を与えてるのか、客の反応を読んでるのかは分からんが、なんとなーく志ん生っぽいなーって気ざえした。大須演芸場で見た時には満場の客(そん時は満員だったのだ)の笑いを操ってる感じだったが、今回は余裕たっぷりに客席と対峙してるような印象である。
 今にして振り返ると、荻窪の魚耕で演ってた頃には客の反応なんてなるべく目にしたくなかったんじゃないかって気さえする。当時の僕の鑑賞力の低さもあるだろうが(なにしろと落語知識は皆無だった)、間ってものを意識した覚えなんてないのだ。それが味わえるようになったのは、やっぱり演者としての進化なんだろうなあ。


 落語1席の後でサイン会だそーで、獅篭は『名古屋式。』の表紙絵の氣志団コスプレで登場。客席も大喜びで盛り上がってたが、なんだか鮫肌実の舞台みたいである。
 僕はそれを後ろの方の席で眺めてたんだけど、その時にガチャッと客席後方のドアが開いた。何の気なしに振り返ると立川談之助師匠で、お客としてそっと様子を見に来られたらしい。落語から脱線した途端に大先輩の落語家さんの登場ってタイミングが妙におかしい。
 サイン会はお客みんなが順番で舞台に上がって持参の『名古屋式。』にサインしてもらうって流れだったのだが、全体で数十分かかったので待ってる間は結構ヒマである。だから獅篭の近くの客以外はみんな席で『名古屋式。』や『少年サンダー』を読んでいる格好で、なんだか客席全体が漫画喫茶になったみたいで妙な光景だった。
 それでも全員にイラスト入りのサインを描いた獅篭は結構しんどそう。残り時間が少なくなったこともあり、2席目の「勘定板」はあっさりテイストだった。宿の主人のキャラクターとかは前に大須で聴いた時より濃くなってる気がしたが、勘違いの応酬の盛り上がりは少々おとなしめだったのがちと残念。


 とはいえ、落語が2席あってほっとした。最初は人数多いので1席+サインで終りかもとか言ってたのだが、それで解散となったら物足りなかっただろうなーと思う。あっさり目の「勘定板」を時間内できっちり済ませて締めくくれるあたりが場数を踏んだ芸人の力なのだろう。
 正直いうと、僕は獅篭サイトでサイン会の宣伝してるのを見て首を傾げていた。以前の風マンバブルの頃、落語会でもって自らサインサインと言ってた時には肝心の落語がぐだぐだだったのだ。久々の著書に再びサイン会って言い出してるのを見て、さてどうなることやらって興味が涌いたってのも見に来た理由の一つである。
 そういう意味じゃ、お客とのコミュニケートを大事にしてる様子や、列の最後に並んでる談之助師やそれを見て大喜びで拍手してる客席の雰囲気はなかなかいい感じだった。漫画喫茶状態の客席も含めて、全体がとても自然体で和やかなのだ。なんだか安定感のある楽しさというか、雷門になってからのシカゴはこういう客席をはぐくんできたんだなーってのが垣間見えた気がした。


 そういう意味で、落語本来の鑑賞とは別に、芸人シカゴの軌跡を傍から眺めるのは本当に面白い。
 今頃になって気づいたが、僕が見たがってるのは「ストイックに芸を磨く求道者のような落語家」ではないのだ。「ああだこうだと無茶やったりバカやったりしてる道化としての生き様」にこそ醍醐味を感じるし、だから今日もこうして高円寺まで来たのだな。
 “寄席に江戸の風が吹いた”みたいな形で落語を描いてる虚構作品にいまいち興味を感じないのもそのせいだろう。僕がシカゴファンでいるのは、落語という物語の外側に以下のような物語を見ているからなんだろう。


ジーンズTシャツサングラスで少ない客を静まり返らせていた荻窪のギター漫談。
・漫画家デビューの緊張感と上り調子の勢いが素晴らしかった第1回風マン落語会。
・連載抱えた多忙と慢心で自爆してどん底まで落ち込んでいた第2回風マン落語会。
・名古屋に流れた後で日本一客が少ない演芸場を満員にして涌かせた第1回雷門祭。


 てなわけで、『名古屋式。』がベストセラーになったら、次の企画はそんなシカゴの物語を綴った「獅篭式。」なんてどーでしょう?